無能から見える風景

組織のリーダーが「情報を隠蔽」したり、あるいは「まわりをイエスマンで固めた」り、なにやら陰謀めいた振る舞いをしているときには、隠された意図があるのではなく、リーダーの能力が足りていないことのほうが多いのだと思う。

扱える事実には限りがある

判断というものは、現場に対する見解に基づいて行われ、見解というものは、その人に報告された事実から組み立てられる。

一人の人間が同時に扱える事実の数には限りがある。その数は人によってまちまちで、同時に扱える事実が最も多い、より広い範囲から集めた事実に矛盾しない見解を組み立てられる人が専門家と呼ばれて、専門性の高い業界では、専門家がリーダーを兼ねることが多い。

見解は、無数の事実から作り出すこともできるし、少ない事実から組み立てることもできるけれど、基礎となる事実の量が少ない見解は、外乱に対してもろくなる。わずかな事実に基づいて「こうだろう」と作られた見解に、例外事項を突きつけられると、その見解は瓦解する。リーダーの見解が瓦解してしまうと、チームは方向性を失うことになるから、まじめに仕事をしているリーダーは、自らの見解を補強するために、能力の限界まで事実を収拾、認識した上で、意志決定を行うことになる。

能力を超えた事実は見えない

人の持っている認識能力には限界がある。限界を超えた状況で、そこに新しい事実を持ってこられても、その人はそれを認識できない。リーダーの能力が足りないときには、視野の外からいきなり突きつけられた「新事実」が、その人の状況に対する見解を根本から破壊してしまう。

たくさんの事実を同時に扱う能力を持っていない人は、見えない弾丸におびえることになる。弾はどこから飛んでくるのか分からない上に、一度当たるとそれが致命傷になる。こんな状況は恐ろしいから、リーダーに認識できない事実は、全ての人に対して「無かった」ことにされる。それが大事な情報なのか、そもそもそれを隠蔽することが、リーダーに何か利するところがあるのかどうかすら、「事実の隠蔽」を指示したリーダーには、そもそも判断できないことが多い。

陰謀論の裏側

能力の足りないリーダーは、ある日いきなり「自分の知らない事実が部下から突きつけられて、自分の立場が脅かされる」恐怖が日常になる。裏を返すとそれは、「自分には必要な事実が知らされていない。部下は大事な情報を隠している」という認識につながる。

リーダーに認識できない「新事実」は、だから最初から無かったことになるし、助言する側の人たちもまた、リーダーが認識できる事実「のみ」に基づいた意見が求められることになる。この状況を外から観測すると、「必要な事実がリーダーの指示で隠蔽されている」ように見えるし、「周囲の専門家がイエスマンで固められている」ように見える。

こうした光景は、だから能力を持ったリーダーが、何らかの意図に基づいて暗躍しているのではなく、能力の足りないリーダーが、莫大な情報量になすすべもなくなったときに陥る必然なのだと思う。

これはちょうど、Win95 時代のPCに間違ってVista を乗せてしまったようなもので、ファイルはなくなるし、固まるし、なんだかこう、PCがユーザーに悪意を持ってるようにしか見えない状態になる。必要なのはいいPC か、あるいは軽いOSであって、「隠蔽しないこと」や「反対意見を広く聴取すること」は、そもそもこの状況では達成できないし、それをやると状況はむしろ悪化する。