何かを呼ぶには3人必要

何かを信じたり、誰かを臣事させたりするときには「3人」というのがマジックナンバーになっている。2人と3人との違いがとても大きくて、1人と2人との違いというのは、それほど大事ではない気がする。

こっくりさんを呼ぶ儀式

典型的な「こっくりさん」の儀式には3人が必要で、この人数を下回ると、儀式は上手くいかないことが多い。

こっくりさんは3人いないと成り立たない。10円玉に参加者全員が指を乗せて、その動きで文字を伝える、昔らからあるやりかたを2人でやると、今の動きがどちらの意図によるものなのか、反対側にはすぐ分かってしまう。これが3人になると、今の動きは誰の意図によるものなのか、それとも意図などどこにもないのか、もう分からないから、「信じる」閾値が大いに下がる。

こっくりさんを2人、あるいは1人で成立させるためには、その場にいる人全員が、心の底からこっくりさんを信じないといけない。「霊」だとか「呪い」、「こっくりさんの存在」を心の底から信じている人同士なら、人数の問題は、信憑性に影響を与えない。

必然で損得を超える

こっくりさんを3人でやると、10円玉の動きが人によるものなのか、それとも儀式に呼ばれた何かの意図によるものなのか、力を込めた本人以外の人には分からないし、証明できない。

「3人が作る反証不可能性」みたいなものを積み上げることで、人は必然的に説得される。損得勘定を超えた、価値軸で人を動かすためには、必然を積み重ねて、戻れないところまで一気に押し切る必要がある。カルト宗教の典型的なやりかただけれど、恐らくはやはり「3人」という人数が鍵になってくる。セミナー形式のカルトでは、講師の他にもたくさんのベテラン受講者がトレーナーとして参加して、「一見さん」を小さなグループごとに導いていく。トレーナーが相手にする人数が増えてしまうと、恐らくは「説得」の効果が落ちてしまうのではないかと思う。

TEDのビデオに出てきた裸で踊る男、人の集まる芝生で男が踊って、2番手がそれに追従する、そのうちみんながつられて踊るというあれは、2番手の大切さを強調していたけれど、むしろ大事なのは3番手なのだと思う。1人が踊って、2人目が追従したその時点で、傍観する3番手は、常識を揺さぶられて、ビデオでは踊りに参加することを選んだ。ビデオでは、草原にたくさんの人がいたけれど、「3人目」がたとえば、踊りに参加せずにビデオを回すことを選択して、それをその他大勢が見ていたのなら、踊る男は2人から増えなかった。

「3人目」が鍵になる

扇動にはコツがある。賛成する人、反対する人は等しくカモであって、「勉強する人」が、扇動者がもっとも注意すべき敵になってくる。

カルト宗教にのめり込んだ誰かが「布教」に臨んで、その誰かに熱狂的に賛同する人間は、教祖の側から見て少しだけ怖い。賛同者は味方だけれど、同時にもしかしたら、軒を貸して母屋をぶんどる刺客になるかもしれないし、熱狂が過ぎた「無能な味方」は、教祖の思惑を壊してしまう。「俺がそのカルトを潰してやる」なんて、敵を宣言して乗り込んでくる人は楽勝で、潰して染めて従順な味方に作り替えればいい。怖いのは「面白そうです。教えて下さい」とにこやかに近づいてくる人で、珍獣を眺める観光客の空気でノートを取られると、信者は冷めて離れてしまう。

3人こっくりさんの儀式において、誰か一人が「私は力を抜いて観察します」と宣言すると、霊を呼ぶ儀式が、2人の力比べに変化する。「学びます」という声は、「ない」ものを「ある」と言い換えることで力を得る人にとっては一番やっかいな存在になる。

扇動をするときには、とにかく煽らないといけない。それが賛同であっても反対であっても、関わった人を、ゼロ点からひたすらに遠ざけられれば、扇動はうまくいく。興味津々の、珍獣をみる観光客の目線でゼロ点に居座る人が増えてしまうと、扇動はもう成功しない。

常識を揺さぶって非常識にたどり着くために、非常識に対して「見物」を決め込むことで、場の常識を取り戻すために、いずれにしても「3人目」の態度が鍵になる。