負けるのは大事

学校で学ぶべき、学校でしか学べない大切なものというのは、「負けかた」なのだと思う。

負けるというのは誰かの価値を受け入れることで、学びそのものでもある。負けかたを知らない人が社会に出ても、負けられないから、致命的な立場に追い詰められるそのときまで、結局何一つ学べない。

審判は大変

本物の競技ディベートというものを見たことがないから、以下は妄想。何か「お題」をもらって、異なる立場から相手の説得を試みるのが「ディベート」という理解でいいのなら、それをジャッジする人は大変だろうなと思う。

誰かに「勝つ」、説得するのは難しいけれど、誰かに「負けない」ための技術というものには典型的なやりかたがいくつかあって、それを習得して再現するだけで、議論をグダグダにすることができる。

実世界での利害が絡まない、制限時間付きの競技ならば、ディベートにおいては、競技者はお互いに「ゲームそれ自体を台無しにする」というカードを切ることができて、ルールでそれを禁じないと、ゲームが成立しなくなってしまう。

対面形式のゲームにはたいてい審判がいて、審判の力量は、ゲームの面白さを左右する。競技形式のディベートにしても、審判をクリーンにやり過ぎると、中学生の学級会みたいな雰囲気になってしまうだろうし、ジャッジを放棄して「何でもあり」を宣言すれば、競技者は「負けない」カードを切るだろうから、制限時間いっぱいまでの人格否定合戦になって、あとから喧嘩になってしまう。

総合格闘技の審判は、しばしば「遅すぎる」なんて叩かれる。あれは実際問題として、お互いに限界まで鍛えた選手が、相手の技に本気で耐えてしまうと、「決まった技に耐えている」のと、「まだ技が決まっていない」のと、その見極めが難しいのだろうと思う。試合を止めるのが速すぎれば、選手は試合に不満を残すかもしれないし、止めるのが遅すぎると大事故になってしまう。

審判は、そこにいる誰もが納得する「負け」のありかたを提案してみせないと、ゲームはつまらないものになる。審判が提案する「負けモデル」が稚拙なら、そのゲームで負けるのは無様なことで、競技者は「負けない」カードを切ろうとするし、お互いに納得のいく負けかたを審判が示すことができて、その判断が公正であると信頼されれば、競技者は気持ちよく負けられる。

ゲームのルールや審判が競技者から信頼されて、初めて競技は成立する。

敗北は大事

いい審判は少ない。そうした人には、お金を支払ってでも審判をしてもらう価値がある。

いい審判にゲームのジャッジをしてもらうことで、競技者は納得のいく負けかたを習得することができる。お互いが認容可能な負けパターンを持っているなら、競技には納得のいく落としどころが生まれる。負けないことの価値は相対的に下がって、落としどころに向かう過程を楽しめる。

学校で討論を行う目的というものは、「負けかたを習う」というところにある。勝つ工夫は誰でもするし、教えなくても努力するだろうけれど、負けかたは教わらないと泥試合になるし、「負けない」協議をどれだけ重ねたところで、負けかたは習得できない。

負けかたを知らないままで社会に出た人は、負けないことでしか自己を保てない。あらゆる取引が泥試合になりかねないし、負けられない人は学べないから、成長できない。負けない人だって努力するけれど、無目的に積んだ努力は、成熟に結びつかない。

本を読んで、読者が作者に「勝って」しまったならば、その本に投じたお金は無駄になる。負けかたを知らない人は、負けることができないから、翻って学ぶことができなくなってしまう。

実社会で泥試合になると、追い詰められたらあとがない。破綻がいやだから、お互いに落としどころを探すのだけれど、「負けない」人とは議論ができない。学校という場所は、安全に負けを体験できる数少ない機会であって、そういうことを教えてほしいなと思う。

負けを宣言できない人は、結局学ばないまま「勝利」を重ねる。いざ問題と対峙して、状況が破綻するそのときまで、「俺はこんなにがんばっている!」と叫ぶことしかできない。いろんな人にとって、それはとても不幸なことだと思う。