無様にやるのは難しい

「戦力の逐次投入」という代表的な失敗パターン、問題を解決するための資源を過小に割り当てて、それでは足りない、という反応が返ってきても、なおも「足りない」資源だけを現場に送って、結果として貴重な時間を浪費してしまうあの状況というものは、作戦を指揮した将軍が戦力を「節約」しようとしただとか、相手を見くびっていただとか、そんな理由からは生まれない。

不足は見えない

診療をしていると、たまに「このままでは病気に追いつけない」という、いやな予感に襲われることがある。患者さんの治療はそこそこにうまくいっているけれど、ベストと言えるほどの反応は得られなくて、やることはやっているはずなのに、何か足りない。

このまま状況を放置すると、「ちょっと反応が少ない」ままに状況が進んで、気がつくとその「ちょっと」はさらに少なくなって、事態はむしろ悪化していく。気がつくと数日間という期間が、根本への対処を怠ったままに消費されていて、愕然となる。

目の前が真っ暗になるような経験を何回か繰り返していくうちに、「このままだと追いつけない」ときには、そんな予感がするようになった。これは何かと言えば、「戦力の逐次投入」という、古来ずっと繰り返されてきた失敗パターンを、当事者として体験している状況そのものなんだと思う。

問題を解決するために、結局どれだけの資源が必要なのか、当事者として問題に関わっている最中にはそれが見えないし、反応の大きさは測れない。反応の有無にだけ注目していると、不十分な資源であっても、反応それ自体は得られてしまう。予期より少ないというだけで。

予期には経験が必要

「反応があった」ことに安心して、方針をそこで固定してしまうと、逐次投入の泥沼に足を突っ込む。

先が見えない状況にあって、わずかでも安心が得られてしまうと、人はそこから動けなくなる。本当はそのときこそが動くべきタイミングなのだけれど、反応が「足りない」ことに気がつくためには反応を予期できることが必要で、予期を行うためには経験がいる。知識は教科書で学べるけれど、当事者としての経験は、当事者をやらないと身につかない。

「戦力の逐次投入」を行った結果、失敗してしまった将軍に不足していたのは、予期に必要な「経験」なのだと思う。部隊が対峙する問題があって、それを無難に解決したい、そのために投じる労力は惜しまないという状況にあってもなお、経験が不足していると、初期に必要な資源を読めないし、それが不足していたときに、その不足に気がつくことができなくなってしまう。状況のまっただ中にあるときには、不足は見えない。不十分な反応を、「不足である」と判断するためには経験が必要で、不足を経験したことのない将軍が、不足を感覚したときにはもう、状況は手遅れになってしまう。

物量を使いこなすのは難しい

「足りない」と思ったならば、その時点から全力で動かないといけない。そこが病院なら、昨日検査したばかりでも、バカと言われようがなんだろうが、今日出せる検査を全部出す。みんながいなくなる前に、心当たりのある人に片っ端から相談して、頭下げて、とにかく病気に「追いつく」ために、打てる手を全部打つ。無能の振る舞いの典型だけれど、こうすることで、今までに何回か、災厄を回避することができた。

不明の現場にあってできることは、「止まる」か「進む」かが全てであって、「考える」ことは「停止」に等しい。「無目的に走る」ことよりも、「そこで立ち止まって考える」人のほうが上等だけれど、その上等さを成果に結びつけられる人は少ない。

原因不明の腹痛を訴える患者さんがいたとして、「外科が3人集まって、一人が手術を決断したら、手術することが正しい」という格言が伝わっている。未知状況においては、誰もが「このまま様子を見たい」という誘惑にとらわれて、そんな中にあって重たい判断をした人の意見は、たいてい正しい。少なくとも安全なことのほうが多い。

少ない物量ですばらしい成果を上げるのはかっこいいけれど、物量を投入して無様に成果を上げるほうが、むしろ難しい。未知の状況にあって、自分の判断に自信が持てないときには、逆説的に「柔よく剛を制す」的な、最小の物量で最大の効果を期待するやりかたが好まれて、判断をゆがめてしまう。それはリスクを取るやりかたであって、リスクが高まったこういう状況においてこそ、「もっとも無様な」やりかたが選択されないといけないのだと思う。