相手から見える風景を想像する
誰かを説得しようと試みるときには、その人から見える風景の中にあるものを使った説明を行わないと、成功しない。
同じものを見ていても、見えかたは人ごとに全く異なる。その人が物事をどう見ているのか、それを想像して、その人から見えた風景を材料にして論を作ると、説得はうまくいく。
夜中の紹介が増えた
もう昔からのことだけれど、18時も過ぎた当直時間帯に、「2ヶ月前から食欲がありません。入院をお願いします」という依頼が、毎日のように近隣老健施設から寄せられる。
入院を決定すると、たくさんの書類を書く必要があって、人手がかかる。当直時間帯は病院に人はいないし、真夜中に、急な入院で動転しているご家族に、当直帯の忙しい中、丁寧な説明に割ける時間は少ない。たとえそれが2ヶ月前からの症状でも、受ける側はやっぱり、大変な騒ぎになってしまう。
こういうのは、「2ヶ月前」のどこか日中で連れてきてくれれば済むことなのだけれど、夜間帯は施設の勤務時間が切り替わる。そのタイミングで患者さんを搬送すると、職員の残業代を節約できる。施設の嘱託医は開業している人が多くて、日中は自分のクリニックがあるから、「その日の回診」を18時過ぎに行う施設もある。そんなこんなで、老健を管理している先生がたは、電話一本で「お願いします」なんて、夜中の救急外来を利用する。
体育会は変えられない
「現場が大変です。何とかして下さい」なんて、ずっと前から病院長にお願いしていたのだけれど、状況は変わらなかった。
老健を管理している人たちは、医師同士の人間関係で言ったら「先輩」であって、体育会ルールにおいて、先輩の命令は絶対で、その代わり、「後輩」に何かあったら「先輩」はかばってくれる。「何か」のその先で、「先輩」に活躍してもらったことなど無いのだけれど、体育会はそういうことになっていて、うちの施設は「後輩」で、状況は変わらなかった。
社会事情が全然異なっているにせよ、昔はたぶん、同じ医師同士で何とかなった。院長の世代は、少なくとも「大丈夫だった」という体験を持っていた。体験として「大丈夫」を持っている、「昔は大丈夫だったから今も大丈夫だ」と考えている人に、同じ医師が、現場の体験として「今は無理だ」を説明したところで、話はなかなか伝わらない。
風景を変える
体育会は変わる理由がないし、変えてはいけないから、変わらない。自分もそうだったから、半ばあきらめていたのだけれど、最近になって病院長を「説得」できた。
やったことはといえば、「同じ医師である自分たちが大変です」という奏上を止めて、代わりに「このままだと病棟が持ちません。うちのナースが辞めそうです」と話題を振っただけなんだけれど、奏上翌日に話が通って、以降、老健からの夜間紹介は激減した。
「昔はお互い医師同士で頑張った」という風景を知っている人に、「医師同士」の話題として「今は無理」を伝えることはできない。ところが看護師さんというものは、病院で学校を作って、そこで育てた、病院長にとっては「子供」みたいな立ち位置で、話題の中に当院の看護師さんを持ち込むと、危機が危機として伝わった。
「現場の自分たちが疲れています」に対しては、「後輩が泣き言言ってやがる」という風景が、「ナースが辞めます」に対しては、恐らくは「老健施設の横暴で自分の子供が潰される」という風景が、病院長に伝わったのだと思う。話はすぐに動いて、近隣施設の回診時間は日中になって、病棟は少しだけ平和になった。
見えるものを伝える
風景の中に「無理」が無い人に、「無理」を伝えることはできない。
「もう無理です」なんて泣いたところで、事故が起きるその瞬間までは、外来は平和に回る。事故が発生する可能性はたしかに低くて、上の先生に危機を表明して、ちょっと当直を代わってもらっても、事故はたぶん起こらない。「ほら見ろ」なんて、「大丈夫」を追体験されて、危機の伝達を試みて、得られるのはたいてい、断絶になる。若手は「私にはできません」と表明して持ち場を離れ、上の人たちは「近頃の若者は」と嘆息する。
たとえばインターネットを使わない人に何かを説明するときには、「ネットでは」と言ってはいけない。その人が新聞を読むのなら、新聞に書かれたことを材料にして論を組み立てないといけない。
相手の風景から見えない、あるいは見えているようでいて、見えかたの異なる何かを説得の材料にしても、説得は成功しない。
どれだけ見事な論を組んだところで、見えない何かがそこにあれば、「ずるい」としか認識されない。「ずるい」と認識される相手、相手側から見て、ルールを破っているように見える人と「議論」したところで、説得には結びつかない。
ルールというものは、語る側でなく、聞く側が決定する。その人がどんな風景を見て、どんなものを判断の根拠にする人なのか、説得はその想像から始まるのだと思う。