電話帳の断絶

数クリックと1クリック、1クリックとゼロクリックとの間には断絶があって、何かに到達するための最後の数クリックは、一つ減るごとに全く違った文化が生まれる。

解剖実習

解剖実習を始める前に、ご遺体のCTスキャンを全身撮影しておいて、それをiPad に入れて、実習中に閲覧可能にしておく大学があるらしい。素晴らしい試みだと思う。

自分が学生だった頃、解剖実習というものは、解剖学の本を片手に行うものだった。その日の実習で切らせてもらうその場所に何があるのか、あらかじめ勉強しておいて、剖検室に持ち込んだ本を読みながら、ご遺体を切らせてもらった。

解剖実習は、これから切るその奥に何があるのか、想像しながらやらないと意味がない。座学でどれだけ暗記したところで、そこから先を想像するのはやっぱり難しいし、本を片手に学んでも、本に載せられる図版の量には限界があって、情報量は乏しかった。

CT画像を片手に、そこで画像をスクロールしながら、これから切る場所の奥にあるものをあらかじめ画像で確認できると、実習の効果はずいぶん違ったものになる。自分がこれから切ろうとしている場所を、iPad の画面にスクロール表示させて、それを実物で確認できたなら、今度は逆に、将来臨床の現場でCTスキャンの画像を見たときに、そこから実物を演繹できるようになるだろうから。

参照すべき何かと、実地で行っている出来事とは、相互にフィードバックしあうものだけれど、このループを小さくしていくと、その人の考えかたみたいなものが、どこかで大きく異なってくる。

解剖実習の経験をもとに、CTスキャンの画像を理解してきた世代と、最初からCTの画像があって、それに基づいて解剖実習を行った世代と、これから先、使う言葉の根っこから代わってくるのだろうと思う。

携帯電話とネットワーク

病院では誰もが携帯電話を持っているけれど、世代によって、使いかたはずいぶん違う。

上の先生がたは、携帯電話で誰かに連絡をするときには、まずはナースルームまで歩いていって、そこに貼ってある内線番号一覧を見る。かけたい相手を一覧表から探して、向こう側の誰かとしゃべる。

自分たちの世代は、携帯電話の電話帳機能を使う。この問題ならこの人、この問題ならこの部署という、自分の行動パターンに見合ったリストをあらかじめ入力しておいて、それを使って電話をかける。

携帯電話の電話帳機能を使える世代と、電話番号表やら、内線一覧を見ながら電話をする世代と、それはほんのちょっとした違いだけれど、考えかたには大きな断絶が生じている。

電話帳機能を使わない人たちにとって、電話が携帯できるということは「どこにいても電話が受けられる」ことであって、どこにいても「かけられる」ことは、メリットとして認識されていないし、昔ながらの行動も変わらない。

電話帳機能を使う世代にとって、携帯電話というものは、「人脈を持ち運ぶための道具」であって、携帯電話を忘れてしまうと、なんだか自分の人間としての機能が小さくなってしまったようで、不安になる。こんな感覚は、上の人たちには理解できないらしい。

何か問題に当たったときに、電話帳を見ることが、数ある選択肢のひとつにしか過ぎない人と、「携帯電話を持った人間」というひとかたまりで問題に当たる人と、心構えみたいなものはずいぶん違う。

電話帳を自分で作り込まない上の人たちは、1人で何とかしてしまおうという感覚が強くて、問題が手に負えないと分かった時点で、初めて頼れる誰かを捜す。電話帳世代の自分たちは、むしろ自分にできないことは「できない」と決めて、問題の大部が「できない」ことにかかってきたら、連絡帳から「できる」人を探そうとする。

減らせるものはたくさんある

電子メールが届いたり、Twitter で何か自分宛の書き込みがあったときには、普段持ち歩いているAndroid 携帯が音を出す。ただそれだけのことが、行動をずいぶん変える。机に座って、アイコンをクリックして呼び出さないと読めなかった電子メールが、今では自分の行動を左右する。

タブレット型PCみたいな携帯デバイスが、次に何か飛躍しようと思ったならば、こんどは電源ボタンの1クリックなんだと思う。手にとって電源を入れるのではなくて、手に取ったら、もう画面が点灯しているような機械があったら、使い勝手はずいぶん変わる。手に取ったらもう読めるものは、今度こそ紙の使い勝手を上書きできるだろうから。

最後の数クリックは大きな意味を持っていて、できることはまだまだたくさんあるのだろうと思う。