表現型は輸入できない

「航空業界のやりかたを見習いましょう」なんて考えかたが、病院では今ずいぶん話題になっている。元航空業界の人達だとか、航空から流れて、原子力の安全問題かすった人達なんかが「安全コンサルタント」自称して、いろんなところに食い込んでる。

休憩時間をしっかり確保すること。安全委員会を立ち上げること。事故のレポート提出を義務づけて、対策を委員会で考えること。恐らくは航空だとか交通だとか、文化としての安全が先行している業界で行われていた慣習を輸入したのだろうけれど、 こういうのを真似しても、たぶん役に立たない。

昔はこれが正しいと思ってた

ずいぶん昔、「チーム医療で防ぐ医療過誤」という 文章を書いた。これは画期的だろうなんて、当時はそう意気込んでWeb に乗っけて、全然受けなかったんだけれど。

今から6年も昔。まだ当時は、自分も「航空業界見習おう」なんて思ってた頃。

医療過誤の多くは「ヒューマンファクター」で、それを回避するためにはどうすればいいのか。 航空業界の人達は、その答えを心理学とか、コミュニケーションに求めていて、 自分はそれが面白くなかったから、統一教会だとかヤマギシ会、「カルト」の人達が 得意としていた「洗脳」の技法に、解決手法を探した。

「安全」とか途中でどうでもよくなって、人の心を動かすやりかたそれ自体が面白すぎて、 何だか今みたいにおかしな方向に来てしまったけれど、結果として当時書き上げたやりかたは、 今でもそんなにぶれていないと思う。

厚生労働省主催の「医療安全対策の講習会」なんかで使われるテキスト読むと、 やってることは6年前の航空業界そのまんま輸入されている印象。

あれから6年経って、もちろん自分の書いた文章が注目されなかったからひがんでるんだけれど、 そんなやりかたは間違ってるし、もしかしたら問題をよりいっそう複雑にしてしまうと考えている。

表現型は輸入できない

企業の文化、安全を含んだ業界文化というものは、業界が置かれた環境に、 何らかの淘汰圧が加わった結果としての「表現型」として、目に見える形で発現する。

表現型それ自体を輸入したところで、問題は何も解決しない。

「オーストラリアのカンガルーは速い」なんて事実があって、じゃあ彼らの足を、 アフリカのサバンナで暮らすライオンに移植したら、サバンナ最強の無敵生物が誕生するかと言えば、 もちろんそんなことはありえない。

「カンガルーの足を持つライオン」は、もしかしたらサバンナ最速の肉食動物になるかもしれないけれど、 ジャンプしないと走れない。サバンナでは、ジャンプする肉食動物は相手に見つかってしまうから、 最速の肉食動物は、たぶん飢え死にしてしまうだろう。

カンガルーの足とライオンの足と、その絶対性能は、たしかにカンガルーのほうが 優れているかもしれないけれど、生活環境も、対峙している淘汰圧も全く異なる 生き物は、「パーツの交換」で強くなることなどありえない。

淘汰圧に注目しないといけない

異業種のノウハウを移植しようと思ったならば、彼らの表現型それ自体に注目するのではなくて、 それを生み出した環境因子、特にその表現型を生み出すきっかけとなった「淘汰圧」に注目しないといけない。

サン=テグジュベリが空を飛んでた昔、飛行機というのは落ちるものだったし、 彼らは短命で、命知らずで、無鉄砲だった。

彼らが「安全」を志向するようになったきっかけ、航空業界に安全という文化を生むきっかけとなったのは、 恐らくは「お客さんがお金になる」という業界の変化と、たぶん淘汰圧となったものは、 「ボイスレコーダー」と「フライトレコーダー」なんだと思う。

飛行機は落ちてしまえば、たいていはみんな死んでしまうから、証拠が残らない。 パイロットは死んでしまう。その時点で何が起きたのかは誰にも分からないから、責を問われない。

今のパイロットは、あらゆる行動ログが記録されて、機内での会話が記録される。 たとえ自分が墜落死したところで、過失は死後であっても追求されて、原因は徹底的に調べられる。

パイロットは今も昔もプライド高いから、恐らくはそんな不名誉に耐えられない。

耐えられないなら「落ちない方法」を探す必要があって、その帰結として、様々な安全文化、 全てのログを取られてもその理由を説明できる振る舞いかた、失敗しても落ちないで帰還する、 起きそうな失敗を事前に回避する、そんなやり方を模索する文化が生まれたのだと思う。

医療の業界に、彼らが生み出したやりかたを形だけ持ち込んだところで、たぶん何も変わらない。

「事故が起きました。安全委員会を作って、検討を行っていました。勧告されていることは型どおり行っています」なんて、 事故が起きて、病院が木で鼻くくったような声明出したところで、患者さんは納得しないし、事故は減らない。

知恵というものは、それが引きずり出される状況に追い込まれない限り、生まれない。

自らを厳しい状況に追い込む淘汰圧、形でなくて、医師自ら、スタッフ自らが生き残りを志向して、 知恵を引きずり出されるような状況を輸入しない限り、「安全文化の輸入」なんて、出来るわけがないと思う。