「ない」ことと「必要ない」こと

単なる自由には意味がない

自由というものは、不自由が作り込まれてはじめて意味を持つ。

飛べるようになった人間は、飛べない人間に比べればたしかに自由かもしれないけれど、「行く手を阻む壁」や「飛び越えられない谷」が存在しない現代社会なら、鳥人だってたぶん、電車に乗って移動する。「できる」だけでは足りなくて、それが切実な機能として要請されて、世界はようやく書き換わる。

あるべきものがない状態は不自由を産んで、それがどれだけきれいな機械であっても、ユーザーはどこかで妥協を感覚してしまう。

ボタンのない機械は不便

最近のタブレット端末にはボタンがついていない機種が多くて、ボタンだらけの携帯電話に比べれば、タブレットの佇まいはたしかにきれいなのだけれど、使っているとやっぱり、たまにボタンがほしくなる。単なる「ない」を「必要ない」に変えるためには、機械の側に、「それがいらない」機能を作り込む必要があって、今のタブレット端末は、まだまだ「不自由なボタン」から自由になっていないような気がする。

ボタンはたいてい、何らかの判断や、選択を行う際に必要になってくる。機械を持った人が「こんなことをしたい」と考えて、目当ての機能に紐づいたボタンを押す。選択を行う以上、ボタンの存在は必然であって、画面に設けられたソフトウェアボタンは、どうしてもどこか、「押せるボタン」の劣化コピーに思えてしまう。

「ボタンがない機械」が「ボタンの必要ない機械」になるためには、ユーザーを取り巻く状況から、選択や判断という行為それ自体を追放しないといけない。具体的にはたぶん、「画面を触ったらあらゆるアプリケーションが全部立ち上がる」ことが、「ボタンの必要ない機械」の正解なのだと思う。

ボタンが必要ない機械

それは「位置」であったり「時間」であったり、あるいは外からの入力であったり様々だけれど、人間の行動は、何らかの文脈にそって行われることが多くて、ある文脈で必要になる機能は、大抵の場合それほど多くない。たとえば自宅で安静にしているときに、タブレットに求められる機能はといえば、メール確認とブラウザ閲覧、TwitterFaceBook の確認ぐらいがせいぜいだと思う。

使う機能が4つであるのなら、「自宅にいる」という状況に4つのアプリケーションを予め紐付けしておいて、「ユーザーが画面を触ったら、4つのアプリケーションが同時に立ち上がる」という設定を行うと、ユーザーが端末を使う際に、選択が発生する余地を追放できる。ユーガーが画面のどこかに指をおいたら、そこを中心に画面が4分割された状態で立ち上がり、それぞれの画面にそれぞれのアプリケーションが割り当てられる。そのまま指をずらせば、4分割された画面の中心がずれて、ある画面は大きく、ある画面は小さく表示され、ユーザーは選択を行うことなく、好きな機能を行き来できる。

「Tasker」 みたいな機能に、無駄にアプリを立ち上げるランチャーを組み合わせることでこうした機能が作れるのではないかと思う。アプリケーションが無駄にたくさん立ち上がる上に、その文脈に乗っからない機能については選択がいきなり面倒になるけれど、ボタンを持たない機械がボタンを持った機械を超えようと思ったら、何らかの手段で「必要ない」を獲得してほしい。

美談の受益者について

認知症の老人が紙幣の代わりにティッシュペーパーを出したときに、素晴らしい対応をしたレジ打ちの人がいたという記事 を読んだ。

ヘルパーの方と街を歩いていたおじいさんがハンバーガーショップに入り、会計の時に「紙幣」として取り出したものがティッシュペーパーだったのだと。

「それは紙幣ではありません」と応対すれば済むことだけれど、それをやると、認知症の人を傷つけてしまう。レジ打ちの人は気を効かせてくれて、「申し訳ありません。当店においては現在、こちらのお札はご利用できなくなっております」と応対してくれ、おじいさんは自身が傷つけられることもなく、間違いに気がつくことができたのだという。

これは間違いなく美談であって、レジ打ちの人は素晴らしい応対を行ったことにはなんの異論もないのだけれど、こんな話が「美談」として広まることには、個人的にはあまり同意できないな、とも思う。

美談は現場を苦しめる

レジ打ちの人がとっさに行った対応は素晴らしいけれど、こういう話が「美談」の形で上司から現場に語られてしまうと、今度はそれが、暗黙に「当たり前」の水準になってしまう。

「結果オーライ」は素晴らしいことだけれど、たまたま上手く行ったそうした事例を、そのまま美談として現場にアーカイブしていくと、賃金は変わらないくせに、仕事に対する要求水準だけが信じられない勢いで上昇していく。美談は結局、現場の首を締めて、今までだったら平均点であった振る舞いは落第点になり、偶然が成し遂げた素晴らしい成果が最低水準となり、そこで働く人たちは、常に「落第」し続けることになる。

「よすぎる」人の脆弱性

完全なワンマンアーミーならともかく、接遇はたいてい、チームで行われることになる。

チームの中に「悪い」応対を行った人がいれば、チーム全体の責任が問われることがしばしばあって、だからこそ現場ではマニュアルを作り、「悪い」メンバーを出さないように気をつける。

ところが接遇の問題を考えるときには、「悪い」メンバーも、「よすぎる」メンバーも、等しく接遇のリスクを生み出す。自分の判断で「良すぎた」成果をお客さんに提供するメンバーが出現してしまうと、お客さんの側から見れば、それは「当たり前」の水準が向上したのだ、と受け止められてしまう。クレームの頻度は、「悪い」メンバーが出現しても、「よすぎる」メンバーが出現しても等しく向上して、どちらにしても、結局チームは疲弊してしまう。

その美談で得をするのは誰か

新聞記事は、「素晴らしいレジ打ちの人がたまたまそこにいて、お客さんに素晴らしいサービスを提供した」という事例だけれど、これは同時に、「よすぎる」人材をチームに配置してしまった、マネージャーの失敗であるのだとも言える。

マネージャーは、「予期された結果」を出すためのマネージメントが期待されているわけで、「予期に反した素晴らしい結果」の素晴らしさと、オーバースペックな人材をそこに配置したマネージャーの無能とは、きちんと分けて語られないといけない。

「結果オーライ」が美談になることで、マネージャーの無能は隠蔽される。予想に反したいい結果を成果として享受する、「当たりくじだけ持って来い」という態度を上司に許せば、現場はますますきつくなる。

この事例が「いい話」であることはもちろん確かなのだけれど、「それを美談として共有することで、得する人は誰なのか」を、きちんと考えるべきだと思う。

書き出しは難しい

Twitter だと気軽に書ける何かをどれだけ積むことができても、ひとかたまりの「論」として、それをまとめるのが時々難しい。難しさの根っこにあるのは「書き出し」であって、アイデアの品質それ自体は、「論」の誕生確率それ自体には、たぶんあんまり関係ない。

規制の話が書きたかった

最近何かで「コンテナハウス」が成功している記事を見た。コンテナハウスは、自分にとっては「成功している規制」に思えた。

あれをたとえば、「建物の形はコンテナ限定、その代わりコンテナを用いた住宅を作った場合には固定資産税を免除」みたいなルールを作って運用すれば、住宅業界や、あるいは家具や生活雑貨を作る業界に、業界の壁を越えたたくさんのアイデア流入して、新しい市場が生まれるのではないかと考えた。

日常生活の中で「こうすればいいのに」と思うことは珍しくない。ニュースを見てそう思うこともあるし、どこかに出かけたり、何かを買ったりした際に何かが思い浮かぶこともある。きっかけがあって、アイデアが浮かぶ、「論」の流れが最初からできている事例を文章にまとめるのは容易だし、実際にそういう文章をたくさん書いてきた。

ところが何かの事例を見て、それとは全く無関係なことを思いついたり、あるいは全くの妄想、仮定を土台にしたアイデアを文章にしようと考えたときには、これがとても難しい。

ある程度の長さを持った、「論」としての体裁がとれるような書きかたをするときには、どうしても枕になる体験や事例が必要になる。導入無しの、事例からの導線を持たないアイデアがいきなりまくし立てられたところで、たいていの人は迷惑だし、実世界と接続する場所を持たないアイデアは、書いたところで何も生めない。

「いい規制や規格が新しい市場を生む」というアイデアを文章にまとめるとして、導入部分の事例として引くのならば、軽自動車の規格であったり、古くは公団住宅の規格が生まれたときの記録を調べるといいのかもしれない。公団住宅の設計図面を引いた人の逸話なんかは本になっていたし、規格という「単なる数字」を巡って、恐らくはミリ単位の折衝が繰り返されたのだろうけれど、事例が古くて調べるのは大変で、調べたとして、その業界の人達から見て、そうした規格が正味のところどうであったのか、自分にはもう分からない。

Twitter は気軽

Twitter のメモ書きには140字という規制があって、そこにたくさんの文章を書くわけにはいかない。そもそもそれができないからこそ、あの場所では前提無しの「こうすればいいのに」を、気軽に書ける。アイデアを気軽に書けることと、それを文章におこせることとは異なって、アイデアはたくさんあるのに、枕になる事例が手元にないからまとめられない、という事態が生じる。

「事例のストックを持っていること」は、文章を書く上ではとても大切なことになる。

小説を書ける人は少ないけれど、「こんな物語が作りたい」とか、「こんな設定を考えた」というアイデアを思いつける人はずっと多い。アイデアを物語として成立させるのに必要なのは、「アイデアの品質」ではなく「出だし」であって、物語の「出だし」が書ける人は、実は恐ろしく少ないのだろうと思う。

書き出しは大事

イデアは、暖めるほどにつまらなくなる。何か「これだ」と思いついたら、それを一刻も早く何かの事例に結びつけて、「論」としてまとめておかないと、アイデアはすぐに実世界とのつながりを失ってしまう。つながりを失ったアイデアは、つるんと丸くなった、反論できない代わりにそこから何も生まれない、単なる「いい考え」になってしまう。

「いい考え」にはなんの価値もない。

「空気の読めない人」は、たいてい物事をよく考えて、アイデアをまじめに磨く。磨いた結果として、アイデアの価値は減じて、発せられるべきタイミングを失ったアイデアは、放り出されて場を凍らせる。「リア充」なんて呼ばれる人達の会話は軽薄かもしれないけれど、彼らの言葉は流れとしっかり接続されて、「ここ」というタイミングで発せられるから、聞きやすく、突っ込みどころがあって、話題が膨らんで途切れない。

おしゃべりが上手な人達は、アイデアを磨く代わりに、「出だし」の引き出しを増やすことに注力する。たくさんの文章を書ける人とそうでない人とを隔てているのは、持っているアイデアの量や品質ではなくて、日常生活を通じた体験を、「書き出しのストック」という形で保持できているのかどうかなのだと思う。

クレーム対処について

クレームに正しく対処するためには、そのクレームに対して「正しく恐れる」ことが大切になる。

恐れかたは、少なすぎても、多すぎても、トラブルを生む。正統なクレームに「毅然とした対処」を行うことはトラブルを生むけれど、ちょっとしたクレームに対して大きすぎる反応を返すこともまた、同じぐらいに間違っている。クレームを恐れることは大切だけれど、必要な大きさだけ正しく恐れて、恐れた大きさに見合った対処を行わなくてはいけない。

不快には種類がある

同じ不快の表明であっても、それが主治医の人格や、病院での接遇に対する不快なのか、あるいは医師の技量や治療方針に対する不快なのかで、対応は異なってくる。

人格や接遇に対する不快が表明された場合には、まずはその不快に対して謝意を表明しないといけない。不快に対して最小限の妥協を遅滞なく行った後、「その状況を維持します」と表明するのが正しい対処になる。不快を突っぱねれば間違いなくトラブルになるし、こうした不快に対して大きく反応しすぎると、今度は治療ができなくなってしまう。

医師の技量や、治療の方針に対する不快が表明された場合には、一切の妥協してはいけない。病院は常に「ベストを尽くしている」ことが前提であって、ここで妥協を表明することは、病院側が「ベストを尽くしていなかった」と受け止められてしまう。病院側は常にベストを尽くしており、それに対して不快や不安が表明されたのなら、その人と交渉を続けることは間違いなくトラブルに結びつく。治療に対する不快が表明された際には、速やかに他の施設を当たってもらうように誘導しなくてはいけない。

病状の説明や、病気それ自体に関する説明は、丁寧に行わなくてはいけない。病気自体に関する説明は、それがどれだけ面倒であっても必ず有限で、丁寧に対処すればいつか終わる。際限もなく終わらない可能性にいらだってしまうと、相手を不快にしてしまう。たとえば肺炎の患者さんを5人受け持てば、肺炎の話を5回繰り返すことになるけれど、これは我慢して同じ話を丁寧に繰り返さなくてはいけない。

何らかの譲歩を求めて、「とりあえず不快を表明する」タイプの人は難しい。不満が無くても瑕疵を探索するし、瑕疵を見つければ譲歩を求める。どこに突っ込まれるのか予測できない。譲歩を求める相手に対して心がけることは、一刻も早い「妥協の表明」になる。「特別扱いしろ」という相手に対して、「特別扱いをさせていただきます」と速やかに表明してみせなくてはいけない。ごくわずかだけ下がってみせることで、相手の瑕疵追求の意志が和らぐ。下がりながら応対して、その後また元の場所に戻る。下がり続けてはいけない。追い詰められてしまう。

知らないことには「知らない」と返答する

自分の施設ではやっていない、あるいは不得意な治療について、患者さんやご家族から「この治療はできないのですか?」と問われた場合には、「できません」と答えなくてはいけない。「それはよくない治療法です」とか、「やってやれないことはありません」といった答えかたは危ない。

やっていないことに詳しい人は少ない。詳しくないことに対して、主治医が「専門家の言葉」としてあやふやな感想を述べてしまうと、言葉が一人歩きをはじめてしまう。もしも何かのトラブルに巻き込まれてしまうと、そうしたあやふやな感想が、「あの病院は患者を囲い込んで治療機会を奪った」といったトラブルの種になってしまう。

西洋医学の範囲を超えた、民間療法を強く希望する患者さんと話すときにも、注意すべきことは変わらない。自身がどれだけ西洋医学に詳しくても、対峙する民間療法がどれだけいい加減なものに見えても、知らないことに対して、白衣を着た人間があやふやな感想を述べてしまうと、将来的にトラブルを招く。「自分はそれに対してこう考える」を述べる際には、「これは個人としての感想ですが」のような前置きを入れて、医師としての立場を明示的に遮断してから「こうだと思います」を表明しなくてはいけない。

リスクは近くで対処する

相手を怖いと感覚した人間は、相手に「恐ろしさに見合った賢明さ」を期待してしまう。それがトラブルの種を生む。

原因がよく分からない患者さんを診療した主治医は、分からないその状況を、恐ろしいと感じる。「恐ろしいから」入院の決断をためらって、「患者さんは具合が悪くなったらまた病院に来てくれるだろう」と、具合の悪い相手にある種の賢明さを期待する。結果として患者さんは、「専門家である主治医」から帰宅を指示されて、専門家の言葉を信じて、状態が悪くなるまで自宅で我慢してしまう。

口うるさい患者さんのご家族が来院したときなどは、「あの人と喋るのは、資料がちゃんと揃った後日にしよう」という思いが頭をよぎる。口うるさいご家族は、同時にたぶん、もっとも大きな不安を抱えた人でもあって、不安に対する対処を怠った結果として、取り返しのつかないトラブルを招くことがある。

主治医が厄介な状況を感覚したそのときに、主治医の感覚はすでにいびつになっている。危ないと感覚したそのときには、だからむしろ危ない何かに近寄る態度で対処を行うと上手くいく。

知識は大切

シューティングゲームの攻略講座では、画面を埋め尽くす無数の敵弾を、奇数弾、偶数弾、固定弾、ランダム弾といった分類を行って、それぞれに対する対処が解説される。

弾幕を生き延びるためには、弾の種類をきちんと見分けることが大切になる。反射神経や動体視力に劣った人であっても、弾幕の種類をきちんと見分けることで、どれだけ派手な弾幕であっても、その中で注意を払うべき敵の弾は、実はそんなに多くないことに気がつくことができるようになる。

画面を埋め尽くす派手な弾幕に惑って、大きく避けてしまうと、壁際に追い詰められて自滅する。画面を埋め尽くす弾幕の中から、見るべき敵弾だけに注意を絞ることで、取るべき行動は自然に決まる。

相手の表明した不快がどんなものに属し、それがどんな性質を持つものなのか、理解して対応することで、極めて大きく恐ろしげに見えたクレームは、正味の大きさは決して大きなものではないことが分かる。

クレーム対処の名人は、相手を言い負かすようなことはしない。さっさと謝り、頭を下げつつ、その実その人の居場所や立場はあまり変わらない。名人のゲームリプレイ動画は、敵弾が自機だけを避けているかのように見え、自機はほとんど動かない。大きな敵が画面に入ると、弾を増やす前に倒されて、名人の画面には、案外弾数か少なくなったりもする。同じことなのだろうと思う。

参考書を雑誌化してほしい

これからの参考書が、電子書籍の形式を目指していくのなら、参考書本体を出版するだけでなく、その参考書に対する様々な識者の「突っ込み」を、雑誌の形で提供できたら、きっととても面白い。

電子書籍は便利

たとえば聖路加国際病院の研修医マニュアルや、寺沢先生の「研修医当直御法度」みたいに、ある程度有名な、ユーザーの多い研修医向けのマニュアル本を、電子書籍として雑誌化してほしい。

原本を電子化して販売するのと同時に、編者の先生が、異なった施設で働くベテランの先生がたに、原本に対する「添削」を依頼する。販売されている原本データに対して、いろんな先生がたの「俺ならこうやるね」や、「この疾患の鑑別診断なら、これが入っていないとおかしい」みたいな突っ込みを、月替わりで読むことができたら、それはきっと面白い。

紙のメディアでそれをやると、「時刻表」になってしまう。毎月のように改訂された、先月と少しだけ異なるだけのマニュアル本が、本棚に大量に並ぶことになる。同じ本が12ヶ月分、本棚に12冊並んだら単なる冗談だけれど、「本棚に並べようがない」という電子書籍の欠陥は、「同じ本の様々なマイナーバージョンをいくらでも重ねられる」利点でもあって、これは活かさないともったいない。

専門家の目線は面白い

昔マニュアル本を作ったときには、同じ分野を記述した参考書を、何冊か並行して読むことが多かった。いくつかの本を読むことで獲得した、ある分野に関する「こうだろう」という偏見は、それをまとめて本にするときに、ベテランの先生がたにレビューを依頼する段になって、しばしば「それは違うんじゃないかな」と真っ向から否定されたりした。これはすばらしく面白い体験だった。

売れている、定評のある書籍というものは、それを読むことで納得が得られるからこそ、読者が「こうだろう」という一定の態度を獲得しやすい。読者によって共有されたそうした偏見は、「その月の突っ込み担当」に選ばれたベテランの目線とぶつかることになる。偏見を獲得することは、その分野に対する暫定的なベテランになることでもあって、「単なる読者」として専門家の意見を読むよりも、「暫定的なベテラン」としてそうした意見とぶつかったほうが、体験として何倍も面白く、恐らくは勉強になるのではないかと思う。

自身の考えかたを誰かに添削されたり、突っ込まれたりすることは、同時にその誰かを理解することにもつながる。権威が自ら文章を手がけることと、すでに出版された本に突っ込むことと、テキストの量でいったら前者のほうが圧倒的に多くても、読者はもしかしたら、後者を通じるほうが、その権威の考えかたを、より近く理解できる可能性がある。

大人の世界の大人げない争い

ずいぶん昔、大人数を集めた血管内治療のライブデモンストレーションがあって、手技も佳境にさしかかりつつ、難しい症例に苦心している術者の先生をねぎらいながら、司会者がパネリストの先生に意見を求めた。術者の先生も、パネリストの先生も、重鎮と言っていいベテランだったけれど、パネリストの先生は、「私だったら、デバイスを全部引き上げて、一からやり直しますね」なんて身も蓋もない突っ込みを入れて、会場が沸いた。昔はいろいろ熱かった。

あの空気で手技を続けたデモンストレーターの先生の胆力も相当なものだし、何よりもお互いの信頼がなければ、「身も蓋もない空気」というものは作ることができないのだろうけれど、何かを学んで習得していく上で、そうした空気はとても大切なものになる。

学術方面の参考書はそういう意味で、まだまだ楽しんで読まれる余地がたくさんあって、同時にたぶん、もっと「楽しむ」ことで、学習はずっと効率的なものになる。

ある参考書を学んでいく中で、読者にはもしかしたら、作者の考えかたをそのまま丸呑みしていいものなのかどうか、しばしば判断できない場面が訪れる。突っ込みの入った参考書、あるいは突っ込む人が毎月変わる、「最新の突っ込み」が出版社から配信される参考書は、学習という体験を、より深いものにしてくれる。

たとえば聖路加国際病院の研修医マニュアルが電子化されて、「聖路加のマニュアルを沖縄中部病院的な目線で読む」回があったりしたら、大笑いしながら勉強できるのではないかと思う。大人の世界だから、真っ正面からのたたき合いにこそならないだろうけれど、文末のまとめかたや、行間のちょっとした表現、あるいは「書けなかったであろうこと」を想像しながら読む参考書は、きっと面白い。

本からはまだまだお金が汲み出せる

「識者同士のプロレス」は、常に面白いコンテンツとなる。ネット空間にはところが、権威がつながる機会こそ多いけれど、「リング」や「観客席」に相当する元テキストが全然足りない。特に学術参考書は、やはり出版されているものを購入しないと始まらないことが多くて、だからこそ、本は本として電子流通させつつ、定期的に「行間のコンテンツ」が入れ替わるようなやりかたで、参考書を雑誌化してほしい。

プログラマの人達は、お互い使い慣れた言語を叩き合う。ゲハ板の人達は、お互いが信じたゲーム機を持っていて、相手のハードに激しく突っ込む。争いは何年も前から続いていて、言語もゲーム機も、素人目には変わることなくそこにあって、それなのに、あの人達の突っ込みあいは、部外者が眺めても何年でも楽しめる。他の業界であれをやらないのは、いかにももったいない。

医学教科書は改訂される。昔と今とで記載の異なる場所はたくさんあるにせよ、作者が同じなら、根っこの考えかたはそんなに変わらない。考えかたの異なった誰かは、別の考えかたに基づいて、同じ分野で別の教科書を書いたりもする。

同じ場所に、異なった考えかたに基づく何かが複数あったら、その状況はすでにコンテンツの母であると言える。準備は万全、リングはそこにあって、レスラーはリングに上がって久しく、お互いずっとウォームアップを続けながら、戦いの準備はずっと昔からできていて、観客はそれを楽しみに取り囲んでいるのに、ゴングを鳴らす人は誰もいない。

本はきっと、まだまだいくらでも面白くなる余地がある。

手の汚しかたを考える

何らかの望ましい習慣に、確実な履行を期待しようと思ったならば、それを行ったことによる報酬よりも、それを行わなかったことによる不利益が明らかになる仕組みを作るとうまくいく。

手洗いは大事

病院において、手を洗う習慣は、とても大切なものであるとされる。手洗いは本来、当然のように「必ず行われるべき」習慣なのだけれど、当然なされるべき何かが、「面倒くさいから」なされないことはよくある。

以前に読んだ、チェックリストの効用を説く本においても、手洗いを病院スタッフに励行してもらうためにチェックリストを活用する事例が取り上げられていた。感染症に対する考えかたの進んだ米国においても、手洗いを徹底させるためにそうした工夫が必要だったということは、逆に言えばたぶん、手を洗わないといけない状況で、つい手を洗わずに次のステップに進んでしまう人が、やはりそれだけ多かったということなのだと思う。

手を洗うことによる効用を説いて、その効果がはっきりと誰の目にも明らかになるよう、統計的な手法を駆使して手洗いの効果を証明して、シンプルで効果的なチェックリストを用意してもなお、恐らくは手を洗わない人は洗わない。やるべきことはシンプルで、徹底すればその効用が明らかであっても、「ご褒美」では人は動かない。

汚れた手は洗われる

病室のドアノブを触ったり、患者さんを診察したりしたあとは、手を洗う必要が生まれる。見た目にはたぶん、手はそんなに汚れていないし、この状況で「手を洗おう」と連呼されても、手を洗わない人はゼロにならない。

最近はパウダーレスの手袋が増えたけれど、病院で使う手袋の内側には滑りをよくするための粉がたくさんついている。手袋が必要な手技を終えると、手は粉で真っ白になって、それをそのまま放置する人はとても少ない。粉まみれの手は気持ちが悪いから、みんな流しに駆け寄って、まずは必ず手を洗う。

利得をどれだけ説明しても、案外人は動かない。罰則を厳格にしても、やっぱり人は動かない。ところがたぶん、「それをやらないと気分が悪い」状況に置かれた人は、まず必ずといっていいほど動き出す。「患者さんを診察したら手を洗う」を徹底させるのならば、「患者さんを診察するといやおうなしに手が汚れる」仕組みをつくると、もしかしたら上手くいく。

たとえば患者さんを診察したら、看護師さんあたりが有無を言わさず、医師の手に小麦粉を振りかける。そうなるともう、手を洗わないと何もできないし、粉だから、徹底的に洗わないと気持ちが悪い。冗談のような風景だけれど、結果として手は確実に洗われて、「手洗い」が目指した効用は達成される。個室ベースの病院であったのならば、ドアノブを触れたら手にインクがつくような仕組みを作れば、患者さんを診察して、その部屋から外に出た医師の手は、いやおうなしにインクまみれになっている。このまま次の動作に移ることはできないだろうから、医師はどこかで手を洗うことになる。

金券選挙のこと

「何もしないこと」が許されるような状況を作ってしまうと、もしかしたらたいていの人は何もしない。何かしないと状況が動かなくなるようなルールを入れると、簡単だけれど切実な何かが、ようやくまともにまわるようになる。

選挙において、投票率は高い方が、一応は望ましいはずだけれど、広報にお金をかけても、投票率はなかなか伸びない。

法律の問題はさておき、投票用紙を「金券」にすると、投票率が向上するのではないかと思う。たとえば投票用紙に1万円という値をつけて、選挙に来た人は、もれなく1万円が渡されるような仕組みを告知する。莫大な原資は税金由来で、これは要するに、選挙前に選挙権を持った人達の財布から各人1万円を引き抜いて、「選挙に来てくれたら、もれなく1万円をお返しします」と告知することに等しい。

税金のおさめかたは人それぞれだけれど、その地域に住んでいる人は、ある日いきなり、政府から「1万円の損失」を押しつけられることになる。その代わり投票所に行けば、その日のうちにそのお金は取り戻せる。

単なる報酬では、人を動かす力は少ない。「俺の金返せ」という思いは、恐らくはたくさんの人を突き動かす。「投票は大事です」では役に立たないし、「投票所に来るとお得なことがあります」でもまだ足りない。「あなたは今、1万円損しました。取り返したいのならば最寄りの公民館、あるいは学校へどうぞ」と損失を明示されて、初めてたぶん、たくさんの人が動き出す。

ユーザーを悪役にしない仕組み

同じ手洗いの励行であっても、「僕の手をもっときれいにしよう」と、「きれいだった俺の手を返せ」とでは、手を洗う人の気持ちはずいぶん異なってくる。

利益を明示してみたり、報酬を提示したり、あるいは罰則を設けるやりかたは、手を洗った人を善人に、手を洗わなかった人を悪者にしてしまう。手を使ったら無条件で手を汚すルールは、手を洗う人を等しく被害者に、そのルールを作った誰かが悪役として叩かれる側にまわることになる。誰もが同じ「手を汚された被害者」という立ち位置におかれるからこそ、確実な履行が期待できる。

自分がマニュアル本を書いたときには、「可能な限り主治医の手を動かさない」ことを、一つのポリシーにしていた。

主治医が自ら手を動かして、血液ガスを採血すれば分かる項目があったとして、それをたとえば、CTスキャンを技師さんにお願いして、採血を看護師さんにお願いすることで同じ結果にたどり着けるのならば、「自ら手を動かして動脈採血」よりも、「指示2回」のほうが主治医の負担が少ない分、そちらのやりかたを優先して記載した。

勤勉な作者が書いた本は、記載されたやりかたに従えなかった読者を怠け者だと断じてしまう。個人的には、これはよくないことだと考えていた。

読者と作者とを取り囲むグループの中で、作者が一番怠惰な人間として文章を書くことができれば、読者はみんな、作者よりも勤勉になれる。作者がそれでなんとかなっているのなら、読者はもっと勤勉なのだから、なおのことどうにかできる可能性が高くなる。

「きちんとやれば結果は明らか」なことであればなおのこと、「きちんと」やることを前提にしたプランを作ると、「きちんと」できなかったたくさんの人を悪者にしてしまう。「きちんと」やることの効用をどれだけ説いたところで、履行確率は一定以上に上がらない。

ルールはたぶん、「怠け者」に作らせたほうが上手くいく。

ハイパーリンクの読書体験

新しいメディアを広めるためには体験の変化が必要で、変化を実感させるために必要な機能というものは、案外地味なものが役に立つ。

CTスキャンの昔

画像の電子閲覧システムを導入する施設が増えたけれど、昔はもちろん、レントゲンと言えばフィルムだった。単純写真なら1枚だけれど、CTスキャンの情報量は莫大で、フィルムにはたくさんの断面画像が並べられて、読影するのに知識がいった。

CTスキャンは人体の断面で、頭の中で立体を再構築できると、フィルムから得られる情報量はそれだけ増える。フィルムに並んだ断面画像を頭に取り込んで、そこから元の立体を想起するには解剖に対する理解が必要で、フィルムの昔、CTスキャンの脳内3Dレンダリングができるのは、読影に慣れた専門家に限られた。

自分が学生だった頃、将来のCTスキャンは、3次元映像になるのではないかと想像していた。CGの技術が進めば、断面画像を眺めるのではなく、最初から立体の形で画像が提示されるようになるのだろうと。PCの力にそこまで期待できなかった昔、CTスキャンを立体化するために、アニメ用のセルフィルムにCT画像をいちいち手書きでコピーして、それを1cmごとに重ねてみたり、知識のない人間が理解に到達するために、いろんな試みが行われていた。

当時描いた「理解の未来」は立体だったけれど、実際に普及して、現場を大きく変えたのはスクロールだった。

電子閲覧システムが普及して、フィルムで一覧する必要があったCT画像は、モニター画面に一つの断面画像を表示しておけば、マウスホイールをくるくるやるだけで、断面画像が入れ替えられるようになった。モニター画面でCTを閲覧するときには、目線を動かさずに画像だけを入れ替えられる。ただそれだけの変化が、画像の理解をずいぶん容易にしてくれた。

立体を立体として理解することは、要するにある断面の上下に何があるのか、頭の中で想像できることに等しい。想像は、以前ならば専門分野の勉強が必要だったけれど、今はもう、マウスホイールをわずかに転がすだけで、その先にある何かがすぐ見える。こうなるともう、本格的な解剖の知識がなくても、臓器の理解が容易にできる。

フィルムで一覧させるのと、マウスホイールを回すのと、自分にとって「電子」が変えたのはそれが全てなのだけれど、ほんのわずかなその変化は、フィルムの昔を忘れるのに十分な変革をもたらした。

リンクには張りかたがある

たとえば歴史物の電子書籍があったとして、文中に出現する年号をタップすると、そこから年表に飛べる機能があったら、楽しみかたがずいぶん変わると思う。

ある歴史物語があったとして、歴史の素人と、歴史の専門家とでは、たぶん文章に対する態度が異なってくる。歴史の素人は、物語を追いかけるのに一生懸命で、その年代に他の国では何があったのか、あるエピソードがこれから先に何をもたらしたのか、知識がないから想像できない。歴史の専門家が歴史物語を眺めるときには、たぶん全世界の歴史をある程度脳内で概観しつつ、目の前で語られる歴史を追いかける。

素人と専門家とを隔てているのはバックグラウンドの知識であって、歴史年号が目に入るたびに全世界の年表を閲覧できれば、素人読者でも、専門家の歴史視点を追体験できる。これだけのことでも、恐らくは読者の体験は異なってくる。

電子書籍にはいくらでも情報を詰め込むことができるけれど、情報の量それ自体は、読書の体験を変える効果は必ずしも大きくないような気がする。ハイパーリンクは便利な道具で、莫大な量の情報を容易に扱うことを可能にしてくれるけれど、読者の体験を変えようと思った場合には、張りかたを考える必要がある。

恐らくはリンクというものを、専門家が持っている想像力の原資に張ることで、読者の体験を変えることが可能になる。CTスキャンなら、専門家の原資は「次のフィルムを予測できること」だし、歴史の本なら、専門家の原資は「年表を想像できること」になる。今目の前で閲覧している画像から、次の画像へ簡単に移動できることも、ある年号を触ったそのとたん、年表に移動できることも、専門家は同じことを頭の中でやる。一覧できるフィルムを丁寧に眺めても、あるいは年号を目にするつど、巻末の年表を参照しても同じことではあるけれど、その手間を省けることが、体験を大きく変える。

読者はどこまでも怠惰になる

palm の昔、まだ非力だったPDAしかなかったあの頃すでに、あらゆる情報を電子媒体で持ち歩くことは可能だったし、無数に公開されているアプリケーションを選んでインストールして、自分だけの携帯デバイスを作って楽しむこともできた。

palm はあの時代、iPhone が成し遂げたことを事実上全て達成できていたのに、palm は世間の風景を変えられなかった。

iPhone にできて、palm にできなかったことはといえば、「同期を省くこと」であったのだと思う。palm は非力で、その代わり、親PCとその都度同期することで情報をやりとりしていた。今のスマートホンが実現している、電話回線を通じた情報のやりとりを実現するために、インフラに投じられたコストは莫大だけれど、同期というほんの一手間が省略できたことは、恐らくはその投資に見合った成果をもたらした。

派手な変化は必ずしも必要なく、メディアの新しさを印象づけようと思ったら、地味な変化で十分な効果が得られるし、派手さはもしかしたら邪魔ですらある。その代わり、ユーザーがその変化に到達するための経路は、極限まで短くする必要がある。

最後の1クリックをゼロにする努力が、恐らくは体験を一変させる。CTフィルムの昔、CTの撮影装置をおいた部屋に歩いていけば、モニター画面とトラックボールで画像を閲覧することは当たり前のようにできたのに、そこに行く手間を惜しんだが故に、変革は体感できなかった。「電子が変えた」体験というものは、病棟までモニター画面とLANの回線が引かれたことで達成できて、レントゲン室までの数分間がゼロになって、自分たちの生活スタイルは大きく変わった。

それが電子書籍なら、マウスクリックではもう遠すぎるのだと思う。文章を指でなぞって、メニュー画面抜きに、単語を触ればもうリンク先の情報に飛べるぐらいに手間が省かれて、はじめてそれが新しい体験として感覚される。

技術はすでに何年も前から存在していて、最後の1クリックを削ることに成功した人が、変革を総取りできる。

PDFは便利

文章と、レイアウトを通じて伝えたいこととを伝達可能で、なおかつハイパーリンクが使えるメディアと言えばPDFで、スマートホンの時代だからこそ、PDFはいいよなと思う。

PDFリーダーの性能次第だけれど、機種が異なっても、再現性はけっこう高くて、リンクを埋め込むと、そこをタップすれば任意の場所にページを飛ばせる。HTML でも同様の機能を備えているとは言え、複雑な表組みの中にリンクを埋め込むのがけっこう難しい。

昔出版させていただいた診断の本は、 最近ようやく、しおりの文字化けを回避しながらリンクを埋め込めるようになった。手元のスマートホンで文章を閲覧しながら、診断用途の表組みから、文中の病名から、当該箇所に1タップでの移動が可能になって、ここに来てやっと、電子媒体は紙の劣化コピーから自由になれたような気がしている。

ハイパーリンク前提の見せかたや、書きかたというものがあるのだと思う。分かりやすい本を書くには、専門知識を持たない読者に向けてかみ砕いた内容にする必要があるけれど、そうした読書の体験を通じて、専門家の目線を追体験するのは難しい。紙媒体で難しい本を作ると、それは単純に難しい本になる。そういう本を、1年ぐらいかけて辞書や百科事典を引きながら読み通すと、たしかに専門知識が身につくとは言え、時間がかかる。電子書籍なら、難しい文章を、指でなぞるだけで同じことができてしまう。

書籍はひとまとまりの知識を販売するメディアだけれど、アナロジーとしては「授業」であって、対話には遠い。検索やハイパーリンクが前提の書籍というものができるのだとして、それは「授業」から「対話」への、体験の変化を生み出すのだと思う。文章は難しいのに、あらゆる単語に当たり判定が埋め込まれていて、当たり判定を指でなぞりながらついて行くと、作者と同じ土俵でおしゃべりできたかのような体験が味わえるような。

palm の昔、いくらあれが流行っていたからといって、持っている人はやっぱり多くはなかったし、画面もそこまで大きくなかった。今は逆に、スマートホンを持っていない同業者のほうが下手をすると少数派で、誰のポケットを見ても、4インチ前後のディスプレイが収まっている。これはすごいことだと思う。

「それが使い物になる」という感覚は、最後の1クリックを削ることで発生する。ポケットにタッチパネルを持ち歩く今のスマートホンになって、ようやくたぶん、電子書籍の「最後の1クリック」が外されて、これからたぶん、様々な体験の変化が得られるのだろうと思う。